研究資料の公開

 これは、私の研究の一部資料を公開するものです。下記の資料は、あくまでも纏めたものなので、原文そのままではありません。また、資料によっては、抜粋してありますので、ご了承を。
御自分の研究に利用される場合には、ご一報下さい。

『比較思想から見た仏教』 中村元氏
日本の国家権力と仏教 ─廃仏毀釈は何であったか─ 二葉憲香氏
浄土教批判』  野々村直太郎氏
「近代真宗教学史の概観」 毛利悠氏


『比較思想から見た仏教』
著者 :中村元氏
出版社:東方出版
初版 :1987年(現1994年版)
                      
【各章の概略】
第1章 ”普遍”宗教 
1・仏教の異文化への広まり
 仏教の顕著な特徴の一つは、それが母国インドを超えて様々な国、人々に広く受け入れられ育まれてきたということである。この伝播の過程で、仏教が如何に変容・受容されたかという事実を説明することに本書の眼目がある。
 インドにおいて、仏教は人の魂に関する教説、或いはカースト制度への疑問視や拒否をする一方、輪廻と業に対する信仰などを取り入れた。以後、アジア全体への広まりを見せていく上で多くの展開を見せる。このように、仏教には、人種や時代を超えて広く受容された信仰と実践の伝統があり、その意味で”普遍宗教”ということが出来る。また、仏教の主張に関しては、全人類の精神的・道徳的要求に対応しているという点で、普遍的な意義を持つ。しかし、本書では仏教が何を主張しているかではなく、どのように一般に受容されたかを取り扱っていきたい。

2・伝道的要因  仏教もキリスト教も時代・地域・状況・土壌の根本的相違があるものの、普遍的意義を唱える”普遍宗教”である。両者は共に様々な地域・文化との出会いの中で次第に変容していった。その変容に伴い、異なった状況下で生じる教義と実践の相違がある一方、両者はよく似た歴史を持っている。
      
 ・発展の歴史
 仏教が東方に広まり、母国インドで衰退したのと同様に、キリスト教は西方に広まりヨーロッパを支配する宗教になったが、パレスチナでは、創始当初から少数の人々の宗教であり、決してそれ以上のものにならなかった。

 ・伝道的色彩が濃い宗教
 全ての仏教の宗派が、その当初から教えを広めることを使命としてきた。一方、キリスト教においては、新約聖書の大部分はパウロの伝道の旅の記録と手紙で構成されていることから始まり、それは現在も継承されている。

3・仏教とキリスト教との歴史の類似性
 二つの宗教は政治権力の崩壊というな政治的混乱と社会的危機の状況下で発展している。ローマ帝国が崩壊(467年)の後に教会はヨーロッパに基礎を固め、仏教は漢帝国の衰退と共に急速に広まった。この理由としては、両宗教が人間の根本的問題の解決の仕方に対して、その教義と実践とが普遍的問題に深く関わっていたことが認められる。仏教の実践道の提示が四諦に含まれる現状分析から始まり、キリストの教えも人間の罪深い現状の認識から始まっている。なぜ二つの宗教がそれぞれ”普遍的な”アピールをなし続けたのか?、を探る。

第2章 仏教の道とキリスト教の道
1・信仰の道
 両宗教の伝統を比較するには、明らかな相違を考慮に入れなければならない。

 ・時間と場所の相違
 ブッダはキリストより500年前に現れて教えを説いた。その伝道はバラモン教とそれを批判する諸宗教を土壌としており、インドに限られていた。キリストはユダヤ教の預言者に預言されていた救世主であり、ユダヤ教を土壌としていた。

 ・根本的見解の相違
 仏教では、現在の生は広大な宇宙で様々な形態をとりながら流転する悠久な生全体の単なる一区切りに過ぎない、という輪廻の信仰を持つのに対して、キリスト教はその前提が創造神に対する信仰であったという点で異なっている。ただ、永遠のブッダという後代の思想で、キリスト教に近づけている。             

 ・発展の過程の相違
 ヒンズー教の民間信仰に強い影響を受けた結果、密教というヒンズー化され大乗仏教が誕生した、など。キリスト教は、ギリシャ思想との接触がある。  以上のような相違がありながらも、比較可能な地平は確かに存在する。

 ・開祖に対する尊敬と帰依
 開祖の使命と教えにその始まりがあり、変わらぬ尊敬と帰依が捧げられている伝統がある。しかし、仏教は法に対する信仰とは別の開祖自身に対する信仰をブッダ自身がよしとしていないが、上座部では、開祖自身に対する信仰と教えに対する信仰を区別する一方、ブッダの日常生活を見習うべき事が強調され、大乗仏教の阿弥陀仏信仰でブッダに対する称揚の傾向が強まる。仏教が開祖ブッダは覚者として捉えられるのに対して、キリストは唯一神の啓示者として開祖自身への信仰が求められる。
 
2・信仰と理性
 仏教の場合、理性による信頼によって開祖への信仰は制約されている。これに対して、「不合理ゆえにわれ信ず」を論拠として、キリスト教は信仰の必要性を高揚して理性をほとんど省みない、とよく言われるが検討の余地がある。
 仏教において、経典にはソクラテス式問答法が多く、ブッダ自身は伝統的権威に基づいて自らの神聖性を主張せず、法という名の真理(人間存在の内に多くの普遍的で不滅の規範が働いている)に従って教えを説いたことからして非常に合理主義的・規範主義的であった。全ての学派が人間存在を支配し、理性によって知られうる、法と呼ばれる普遍的理法を前提としている。
 一方、キリスト教では、罪によって汚された人間の理性は信頼するに足らず、よって知的努力によっては救われず、キリストに対する信仰だけが必要とされる全てだ、と多くの現代のキリスト教者は主張している、としばしば評されている。この意見によると、理性に対する信頼は仏教徒に比べてほとんどないに等しいと結論づけられがちである。
 しかし、別のキリスト教の伝統もある(理性への依存にキリスト教が懐疑的だという印象を受けるのは、しばしばカール・バルトに影響されたキリスト教師に出会ったからかもしれない。パウル・ティリッヒに出会う人は逆の印象を受けた)。人間は神の似姿であるから、あらゆる人間がその能力を持っている、とも考えられるし、何よりもギリシャ哲学がキリスト教の教義に入ってきたことによってロゴスの概念が見られるようになってからというもの理性が尊重されるに至る。新プラトン主義的なキリスト教では、キリストをロゴス、即ち超越的な神の英知が人間としての形態をとったものと考えられた。この影響を強く受けたトマス・アクィナスに至っては、理性の軽視に対して極めて批判的に捉えられるようになった。種々様々なキリスト教思想の歴史が十分に考慮されるならば、キリスト教は理性を軽視してきたなどと言うことはほとんど言われなくなるだろう。

 以上の二つの普遍宗教に於いて、盲目的信仰に変わって知性的な信仰が台頭してくるに至った。人間は理性的な存在であり、理性を用いないわけにはいかないという事実から生じる問題を取り扱ってきたことを意味している。両宗教は、共に人間の本性における側面を考慮したが故に幅広く受容されたと結論づけていい。単に情緒にアピールしたというわけではない。

 3・理性の限界
 仏教は概して形而上学的論義を好まなかった。大乗仏教の哲学者龍樹も、世界の起源、霊魂の不滅などの議論には加わらなかった。仏教の観念論(唯識派)は一種の形而上学とも呼ばれうるような哲学体系を発達させたが、それさえも我々の思弁を超えた空性に基づくものとした。仏教徒達は、一般に、二律背反に陥るような問題を詳細に論じようとはしなかった。ブッダにとって、形而上学的議論は心惑わすものであり、人生の苦に対して、緊急且つ根本的な関心こそが重要なものとした。
 他方、キリストは不可知論者では無かった。むしろ、ユダヤ教の創造神信仰を受容してそれを基礎に据えた。また、自由な思想が花開いたインドとは対照的に、当時のパレスチナではユダヤ教予言者の言葉のみあって、形而上学的質問をキリストが受けるようなことは滅多になかった。哲学的思想との最初の出会いは、パウロの伝道の旅に於いてであり、哲学的思弁に対してとられた態度は、ブッダとほぼ同じであった。
 おおまかにいって、キリスト教の教義には、仏教と同じく実践への関心が見受けられる。その理由として、両者とも自分の役割を医者のそれと考えていたことが考えられる。

第3章 人間的状況の診断
1・一切皆苦、諸行無常
 渇望が苦の原因である。何故ならば我々が欲求する対象は無常であり、変化し滅びてしまうからである。我々の欲求の対象が無常であるから、絶望と悲哀が生じる、と人間の状況を仏教は分析する。
 他方、キリスト教は創造神との関連で考えられているなどの相違点はあるものの、人間の罪深い状況に関するキリスト教の説明には、仏教の説明と著しい類似性がある。ユダヤ人には、最初神の偉大性という観念があり、次に神から疎外されたとるに足らない人間の役割が強調された。これに対して、仏教では最初に脆くて弱い人間の存在が強調され次に彼方にあるものが求められた。言うまでもなく、宗教的信仰は人生のはかなさや脆さと密接に関係している。

2・輪廻
 仏教は、輪廻と業の概念を採用したのは、理論的理由からではなく、実践的理由からであった。業の力は、輪廻によって一回の生存を超えて持続すると説き、当時広く信じられていた霊魂説から業の教えを切り離すことによって、業の教えの面目を一新すると共にその実践的な効果も変化させたのである。再生と業を認めるということは、仏教特有であり、西洋に対応するものは見いだせない。

3・仏教の無我説
 人間の自我と呼ばれるものについて、両宗教は完全に思考法を異にしている。キリスト教が肉体とは別に不滅の魂が内在している、と考えるのに対し、仏教の無我説は全く逆のことを主張しているからである。人間は五蘊が仮和合したに過ぎない、と仏教では考えられ、魂や自我などと呼ばれる伝統的な実体の概念を払拭し、その代わりに新たに非我(無我)の原理をもたらした。しかし、ブッダは形而上学的実体としての魂の存在を想定することはなかったが、実践的で道徳的な意味における行為の主体としての自己のはたらきは認めていたのである。後者の意味としての自我は、キリスト教の説諭にも認められる。

第4章 仏教とキリスト教の治療法
1・目標
 仏教の目的は、楽園や天国ではなく、その中心課題は、正しい道を歩んでいけば、自分自身を人生の束縛から解放でき、最高の真理を実現することが出来て至福に至る、というものである。しかし、西洋ではこの至福が 、涅槃(ニルヴァーナ)という言葉から”死滅”と訳され、涅槃の希望とキリスト教で言う天国の希望、永遠の生命との間に、多くの共通点があるという認識が妨げられている。
 また、一部の西洋人が、仏教の涅槃が虚無即ち全くの無を意味すると主張することに対して批判の必要がある。このような考えが一因となって、仏教は本来初期にあっては宗教ではなく、大乗仏教へと発展して初めて宗教となり得たという見解が生じるのである。そのような説は事実とは合致しない。仏教は最初期からインドで広く受容されており、時間と変化を超越したある目標を探求する人に浸透していった。

2・目標に至る道
 ブッダは、生が老・死などの苦の原因であることを発見し、その連鎖を無知にまで遡らせた。そして逆に、無知が形成力を生じ、それが又意識を生じるというように、因果関係の連鎖を辿り、老・死の原因として生に戻りついた。又逆に、生の死滅が苦の死滅であるとの認識から、ついに無知の死滅が結局は連鎖全体の死滅につながることを発見した。この無知の克服が、種々ある教えによってその手段が説かれるのである。
        
3・中道
 極端に世俗の欲望を卑しく求めることや、極端に肉体を苦しめさいなむ苦行者の実践を離れた普遍的な規範である。それは、外見を飾っても内面を清浄にする事を忘れることへの批判であり、苦行や肉食に関する極端な慎みに関してキリスト教と仏教の同様な中道の態度が見られる。              
       
第5章 教団
1・道における努力
 仏教が強調した努力は、主に精神的な精進と理解されるべきである。仏教徒達は外面的な行為よりも、内面的な行為に、より一層の興味を示した。故に初期の仏教にとって肝要な徳目は、この努力という特性、精神的精進を各人が常によく発揮することである。ブッダの最期の説法は怠ることなく常に精進努力せよということであった。しかし、だからといって、初期の仏教徒達は外面的努力の必要性を過小評価していたわけではないが、古代の西洋人ほどには自然界に対する外的努力をしてこなかったように思われる。

2・教団の戒律
 釈尊在世時に作られた教団は、当初遊行生活を旨としていたが、やがて僧院で生活をする様になる(この傾向は西洋でも認められる)僧は厳しい戒律の中、全ての行為について無常性や倫理的意義をはっきりと認識していなければならなかった。そして、行為の背後には永続する実体としての行為者は存在しないことをよく観察しなければならなかった(聖パウロも同じ趣旨のことを言っている)。仏教の僧と同じく、キリスト教に於いても、修道士は仏教と類似の修行を行っていた。このような僧院的で内省的傾向の強い修練について、自利あって利他が無いという批判があるが、宗教に於いて偉大で新しく、又創造的な全ては静かに祈りを捧げたり、孤独の瞑想に耽る魂の無窮の深みから生まれるものである。
 
3・仏教と社会
 仏教は、僧が金銭に触れることや、商業活動に従事することを厳しく禁止したが、在家が財産を蓄えることを決してとがめなかった。原始仏教は、それ故に信仰商人達の宗教になり得た。政治の分野では、ブッダは共和制を理想とした。人民によって主権が委任されるという政治形態をブッダは称讃したが、政治活動や政治に関する議論までも禁じた。ブッダは、キリスト同様神とシーザーを区別したのである。しかし、仏教の理想社会の建設のために政治を問題にすることは避けて通れず、やがて王に助言するようになる。それにつれて普遍的君主の理想像(転法輪王)が芽生えるようになり、ブッダがそれに当てはめられるようになる。それはユダヤ人が抱いた救世主の理想が原始キリスト教の精神に影響を与えたのと同様である。
 今日、仏教界では仏教の社会的福音とは何かが問われている。これについては、仏教における慈悲の徳が前提になる。異なる自己の間にある障害を取り去って、愛を実現しようとした。仏教とキリスト教における愛の概念の相違は、今日でもなお重要である。一般的に言うと、西洋人は愛の概念を個人主義に基づかせるが、東洋人は愛ないし慈悲を個人間の不二性の観念に基づかせる。
 二つの普遍宗教はいずれにも種々なる救済の道があり、それぞれの道に従うものの決意と努力が要求される。このような教法は人々が実際に自己自身の救済を達成できるということを意味している。かくして両宗教は、人間は信頼しうる存在であり、能力のある存在であると見られており、このことが人間の尊厳に強くアピールした一因なのである。

第6章 禅仏教(省略)
      
第7章 浄土仏教
1・慈悲
 慈悲が表現された顕著な例は、”身代わり受難”である。この観念は、人間の要求の感覚と密接に関連しており、またそれは慈悲深い恵みによって罪も償われるという思想を前提としている。”変わってくるしみを受ける”という思想は大乗の修行者の理想であった。これはキリスト教とは相違があって、キリスト教では聖者信仰があるものの身代わりの贖罪はキリスト独りによってなされるのであり、仏教では如何なる菩薩によってもなされうるのである。

2・人類の堕落
 他力の依存は堕落の意識と結びついている。キリスト教には罪の意識があり、仏教の伝統では、浄土教において最も顕著にあらわれている。中でも親鸞は特筆すべきものである。仏教の教えを既に聞いているのにも関わらず、悪を行っている自己の事実に親鸞の内省の出発点がある。これと似た反省は、パウロ或いはアウグスティヌスにも見いだせる。ところでアウグスティヌスが懺悔に至った事実を記しているのに対し、親鸞はどのような種類の罪を犯したのか具体的に記していない。親鸞は個別的事例の表明を恥じたのであろう。ここに、宗教的告白の表現の差異が見受けられる。
        
3・他力
 親鸞は罪を意識すると同時に救済の恩寵にすがる教えを説く。ここでは、信仰が救いのための唯一の必要条件となっており、それ以外の如何なる仏教哲学も全てのぞき去られる。ほぼ同時代を生きたトマス・アクウィナスにあっては、当時キリスト教神学界における恩寵の二つのはたらき(恩寵が行為と共に働くことによって救われるという説と恩寵のみによって救われるという説)について論争がされていたことに対比しうる。
 親鸞は信と口称の念仏が共に必要であるとしたのに対し、パウロも心の中での信仰と口での告白との両者が共に結合したときに救いが完成することを述べている。しかし、キリスト教における口での告白は、浄土教におけるように単純化されなかった。

4・結論
 仏教とキリスト教という二つの伝統を以上に見てきたが、より一層注目してきたのは、思想を伝える用語であった。ある用語が使われている文章の前後関係を見ると、厳密な意味で似ているとは思われないが、それでも人間の立場や状況及び意識に類似性のあることを示唆するような、相似た実践や行動や言語とかかわっていることが分かる。二つの普遍宗教の一般的受容を解明しようとする議論が行われる際に常にあらわれるのは後者のような比較の立場である。人間としての渇仰や挫折、それに伴って生ずる疑問や課題は、普遍的な類似があり、両宗教はこのような要求や条件に関わって人間にアピールするものを持っていると言えるだろう。
 しかしながら、宗教思想の領域では、提起された問題を考える際に、何らかの緊張関係がある。したがって、前章では解脱や救済を得るためには、人間自身の決意つまり自力が必要であることを強調する思想と実践とを論じ、一方、この章では”恩寵の宗教”を取り上げて恩寵即ち他 力に力点を置いた。

日本の国家権力と仏教 ─廃仏毀釈は何であったか─
『仏教 その文化と歴史』より二葉憲香氏
編者 :日野賢隆先生還暦記念会
出版社:永田文昌堂
初版 :1996年(現1996年版)
                   
【各章の概略】
 辻善之助博士の「日本の仏教は国家仏教である点に特色がある」とは、日本書紀以来の仏教史観であった。天皇主権の国家仏教が始まったのは、645年の大化改新からで、孝徳天皇の命により仏教興隆の詔が出され、僧官を任命して戒律による僧尼教導を令したことに始まる。これは、蘇我仏教を継承するもので、聖徳太子仏教については全く何の関心も示していない。
 蘇我仏教とは、氏神族をまつる伝統信仰の保持者であり、その宗教的基礎の上に仏=外国神を信じ自己権力の増大をはかったものである。聖徳太子の仏教が、無我原則に基づいたものであるのに対し、蘇我仏教は有我、自利追求に終始するものであった。釈尊霊に自利霊験を祈る呪術信仰がその内実である。つまり、有我・自利仏教の継承をもって天皇=国家の仏教信奉が始まったのである。
 この国家仏教信奉の方式は、唐の道先仏後体制に倣ったものであった。日本に於いては、神先仏後体制をとり、祭政一致体制を行使するのである。律令体制下では、仏教は治部省下の玄蕃寮の所轄とされ、僧尼令が作られる。唐の場合と同様、仏教を呪術視して国家権力の繁栄を目的とした無我原則を排除したものであった。以後、明治維新に至るまで、仏教の正邪は仏ではなく、天皇・国家によって規定されることとなる。
 僧尼令の第一条に
 詐りて聖道を得たりと称するは、並に法律に依り、完司に付して罪を科す。
あることから、還俗させられ一般刑に処せられたのが行基であり、法然・親鸞である。 このような帝王の仏教指揮・判定権を強化したのが、桓武天皇である。最澄、空海の宗を国家呪術とした天皇として知られ、この伝統がやがて興福寺奏状となった。以後、武家政権も神仏混同の宗教指揮権と政治権力の合体を伝承している。

 キリスト教宣教師によれば、日本の政治権力には人民の信教を作用する力があるので、政権者を利用すれば容易に布教できると述べている。徳川政権下でも、権力安泰を祈願する呪術的期待を仏教に持っていた。
 つまり、日本の国家権力と仏教との関係は、一度も無我原則を受容したことのない伝統である。近世幕藩体制下においても儒学国学は自我信仰を仏教信仰として、仏教忘却の歴史を構成する。その中で、様々な宗派の仏教と称する霊魂信仰が形成されたのである。  
 かくして、有我・国家主義の天皇の神性を主張する国学排仏が主流になり、廃仏毀釈が始まることとなる。神仏分離令をもって神道国教化政策をもってその本質とした自尊・自我信仰が廃仏と称するものであった。結局、仏教の自我、我執の根元的否定と平等な生命の尊厳の尊重は全く知られることはなかった。
 廃仏とは、仏教の外皮をつけた国家仏教がその外皮を捨てて、自利・自尊を立場とする神信仰に帰って裸になったにすぎない。それに追随した仏教徒は、国家神道を宗としたのが実体であったようである。
 有我・自利の霊験信仰・霊魂祭祀を受容すべきだとするポスト・モダン教学が現れ、もてはやされる現状は、廃仏毀釈の大成果、仏教忘却きわまれりというべきか。



浄土教批判』        
著者 :野々村 直太郎氏
出版社:中外出版
初版 :1923年(現1923年版)
       
【各章の概略】 

☆序 言
 浄土教は、立教七百年後の今日に至って、重要な岐路に立たされている。第一の路とは、釈尊以前からあったインドの階級制度を擁護した三世因果・六道輪廻等の思想や、釈尊以後に宗教神話として築かれた弥陀成仏を客観的真理として認めつつ、その上に立って浄土教の精神を語っていくことである。第二の路とは、従前の思想を客観的真理として認めることなく浄土教の精神を語ることである。前者はインド思想についての調熟が必要となり、後者にはそれが必要がない。言い換えれば、浄土教はインド人としての前提を必要とするか、或いは日本人そのままに入信が可能かという問題であり、そのいずれか一方を選択しなければならない岐路に立たされているのが私達である、といういことである。氏は、後者こそ宗教の価値を今後開拓する可能性を指摘する。
 当著作は、宗教としての浄土教を宣揚すると共に、迷信としての浄土教を打破する事を起草の動機とし、破壊論を前半とし建設論を後半とした立教開宗の真精神を見出そうとするものである。

☆第一章 封建時代と浄土教
1・過去の偉観
 法然上人が世に出で、証空・弁長・親鸞が念仏門を宣揚した結果、一浄土教国を建立するに至った。浄土教ほど三国傳通の古今の中で歓迎されたものがあったであろうか。歓迎した日本の国民無くば、浄土教はインドに衰え、中国で滅びたであろう。

2・時機相応
 日本の国民がこれほどにその無比の順境を見出した所以は何れにあるのだろうか。その理由は時機相応である、ということは論を待たない。ただこれについては、主観的立場に立った味道もしくは法悦という教内の解釈と、客観的立場に立った歴史的理由を尋ねる教外の観察との趣がある。

3・浄土教徒より見たる時機相応は論外のみ
 前者の主旨は、釈尊入滅の後、末法濁世の今日こそ正しく浄土教の興隆の時節であるとするものである。しかし、このような主旨は教内の沙汰として不自然ではないが、何故日本が特にその舞台となったかについては後者の見解が必要となる。

4・本末転倒とその救治
 後者の歴史的理由についての見解は内外の事情に分けて考えられる。内部の事情とは、南都北嶺の仏教が哲学化してしまい、世人の宗教的要求を満足するには余りに無能になっていた、ということである。これらの仏教は、その面目を哲学的に談ずる宗教であって、談ずるは哲学、談ぜらるるは宗教として本末の関係、能所の次第は混同が許されないものであるのに、平安末期にはその顛倒が起きてしまったのである。
 この救治には二つの方法がある。一つには、本末の矯正と同時に復古的再建を図る方法である。二つには、宗教と混同された悪習を馴致した哲学を斥け、全く趣を異にした神話或いは文芸等をもって俗耳に入りやすい手だてで宗教を談ずる革新的方法である。浄土教の革新は、後者に出たものである。これは、十六世紀のキリスト教改革が第一の方法に依ったことと比較しても、世界の宗教史に類を見ない。
 
5・当時の世相と浄土教
 外部の事情としては、平安朝末期より鎌倉初期に至るまでの社会的・政治的動揺は浄土教興隆に呼応し、江戸時代ではその繁盛の様をしっかりと固定したことが挙げられる。

6・封建的社会組織の安全弁
 この直接面前の世相よりも、注目すべき間接背後の事情がある。浄土教は、三世因果的応報思想が封建社会の階級制度と相呼応し、過去世の業報を信ずることに依る民衆の不平勃発の鎮撫と共に、妙好人伝のような模範的信徒の順次の往生極楽を好餌とした安全人物を羅列することによって、封建制度を支えた。

7・浄土教の危機
 このように概観すれば、現代の浄土教の実際はどのようになったか。内部の事情からすれば、哲学そのものになった仏教からの救治をするために神話を以てかたることを特色とした浄土教は、ついに神話そのものになってしまった。外部の事情としては、封建制度の終焉と共に、民衆に対して現実を諦め来世に目を向けさせた三世因果的応報思想が社会の大勢に対応できなくなった。まさに内部に堕落し、外部より切り離された危機である。

☆第二章 現代とヒユマニズム
1・世界の大勢
 死後を目的として現実の人生を方便とする往生思想は過去の思想であって、もはや現代及び将来に容れられるべき思想ではない───従前とは全く反対に現世を目的とし人生を本意とする新思想、ヒューマニズムの登場である。
 歴史的に言うと、ヒューマニズムとは中世末期から近世初期に至る過渡時代所謂文芸復興時代における時代思潮の名称である。この人間中心主義の思想は今日に至るまでの近世三百年根本において変わりがない。この潮流に対してキリスト教徒はいかに応えたかを見ていくことは、浄土教徒にとって絶好の因縁である。

2・教会と法主
 キリスト教徒は十六世紀に宗教改革をした。当時敬虔なキリスト教徒は、キリストの救済事業を継承する代理者として教会及び法王を仰いだ。このこと自体、法悦の余情として斥くべきものではないが、これがいつしか形式化し、個人の宗教生活を左右するに至った。ヒューマニズムに目覚めたキリスト教徒が、第一に試みたのはこの弊害の排除である。

3・本山と法主
 このような運動は、浄土教徒の間で無意識的に成就した。封建時代には、本山は神聖視され善知識は如来の化身のように崇拝された。それは、明治の中葉に至っても残存し、光瑞上人がさながら如来と仰がれたのもその一例である。これについても、キリスト教徒同様、善知識を如来の使者として仰ぐことは味道の現れとして否定されるものではない。しかし、これが形式化するに至って、キリスト教の場合と趣を異にするのは、客観的権威の偶像が、知らない間に自分の方から手を引いてしまったことである。これは、浄土教にとって喜ぶべきことである。

4・聖書と耶蘇
 パウロに立ち返った改革者が、個人の信仰を尊重し、人と神との間に介在した教会・法主を排斥された結果、耶蘇はもはや僧侶を専らにすることなく一般教徒の直参しうるものとなった。しかしその結果、世俗は聖書・耶蘇に固執して面目を失うことになる。
そもそも、聖書・耶蘇は信仰の有無によって神聖か否かが定まるのであり、信仰は本であり、聖書と耶蘇は末である。ところが、信仰ある個人が、道味法悦から聖書を神賜とし、耶蘇を神子とすることがいつしか形式化し、本末転倒して聖書・耶蘇が個人の宗教生活を支配するようになってしまって、ヒューマニズムの精神と一致しなくなってしまったのである。この改革はいつしか教会・法王に聖書・耶蘇が取って代わる結果に終わってしまったのである。

5・三部妙典と宗祖
 このような傾向は、浄土教に於いても認められる。教祖や経典が個人の信仰を育んでこそ有意義なものになるのだが、実際には教祖・経典にとらわれて信仰の面目を失って、その結果ヒューマニズムの落伍者として行き詰まってしまっているのが浄土教の現在の姿である。

6・基督教徒血迷ふ
 改革に失敗した基督教徒は、その囚われから放たれようとして、結局世界的潮流に押し流されてついに全く血迷った。その次第を十八世紀と十九世紀に分けて述べる。

7・血迷へる理神論者
 理性万能主義の十八世紀には、個人の理性を本意として、教会・聖書からの独立を主張した。人間の理性を至上の権威として、聖書や耶蘇を取捨しようとすることは、宗教の生命である人間の信仰を指しておらず、全くのお門違いである。

8・浄土教の理神論者
 基督教に比べて浄土教は科学思想の刺激が無く、幸いにして小理神論者程度の存在を認め得るのみである。いずれも、取り立てて言うほどのものではない。

9・血迷へる聖書批判家
 歴史尊重の十九世紀には、 聖書及び耶蘇に対する史的批判を特色としている。例えば、奇蹟はその時代の信仰より歴史的に説明されるべき神話であると主張する、などである。

10・基督教の宗教的破産
 耶蘇が信仰の対象の役目を果たさなくなった結果、耶蘇を信ずるのではなく、耶蘇の如く信ずべしとされて、耶蘇はただの一個の信者として捉えられるようになる。この時、もしも耶蘇に罪悪意識無く、従って神の救いが彼にとって全く無意味であるとするならば、彼は決して神を信ずる必要が無くなる。耶蘇を以て模範と為し耶蘇の如く信ぜよということは、裏返せば耶蘇が神を信じなかったように私達も神を信じることはないという、信仰無用論に帰結した。
 罪悪意識はマタイ伝十九章第十一節を根拠としてゼームス、マルチノーによって主張されているのに対して、多くの聖書批評家は潮流に流されて無信仰の耶蘇を奉じた。

11・浄土教徒もまた行き詰まる
 現代は三世思想や罪悪意識を認めるのを好まない。もとより教家もその用意と自信がない。これとは反対に、始祖の深刻なる罪悪意識有ることを肯定せざるを得ない浄土教徒の立場も今や全く行き詰まっている。

12・親鸞教徒の迎合
 この問題に関して、親鸞の妻帯生活をもって相対する新進教家がいる。彼らは、始祖が人間性を肯定し、人間味を発揮されたのがこの妻帯生活だと主張する。しかし、伝承的標榜に従えば、親鸞の妻帯は、内は六角堂観音の告命により、外は師匠法然の懇諭に強いられて、拒み難きままに自ら末代在家念仏者のための犠牲となった、という随他意的妻帯は人間性や人間味を無視した超人間的なものである。ところが、随他意的妻帯が親鸞の自己の性欲に取り替えられて、随自的妻帯の意味での親鸞の解放がされた結果、親鸞の妻帯は精神病的罪悪意識を伴った世俗尋常のものではなくなった。

13・色魔の論理
 親鸞の随自的妻帯は、自分の性的要求の満足が端緒であるが、それは決して愛欲の浅薄な享楽者ではない、とされる。つまり、愛欲の見苦しさや浅ましさを痛感・悲泣・懺悔して人間性に随順しつつも如来の救いを体験した、というのである。
 しかし、このような感傷的色情生活は正気の沙汰と思われないほどの法悦ならぬ苦労である。これは殊勝と言うよりむしろ挑発的であると評するのが妥当である。現代の浮薄な親鸞流行は、このような妻帯生活にその原因があり、如来の絶対的是認を借りた性欲解放は宗教的意義のない色魔の論理である。

14・迎合の末路
 そもそも、真宗の立場からは、愛欲生活のみが罪ではなく禁欲生活も含めて、如来の前で全てが罪悪である。宗教上の罪悪とは、全く信仰の座より見た溢れんばかりの主観的法悦の沙汰であって、客観の愛欲又は禁欲ではない。
 何故特に愛欲生活が罪悪視され、且つ悲泣しなければこれにありつけないとされる理由は何処にあるのだろうか。それは、現代の性欲感と浄土教の罪悪感を結合しようとした結果である。親鸞は、非宗教的な方向に自己の宣伝がされて迷惑であろう。聖書批評家の耶蘇と比較するに、一には、宗教的に無意味な罪悪意識を強いられて、二には、宗教的になくてはならない罪悪意識を奪われてしまったことが挙げられる。

☆第三章 往生思想は宗教に非ず
1・汽車は出て行く煙はのこる
 現代に於いて、罪咎無い人間に何で身仏の救済や来世往生の必要が有るだろうか。大胆にも、基督教の新進家は人間の罪人扱いを撤回した。自ら罪なしと信ずるものに救いはなく、救い無ければ神は無い。有っても無いと一般である。こうして彼らは無神論者となった。喩えれば、現代思想という急行列車に飛び乗ろうとして狼狽し、乗るには乗ったが、罪悪感という手荷物を忘れて無宗教者としてただの乗客に伍した、と言える。
 これは浄土教徒に於いても変わりなく、始祖などの罪悪感は取り消すべき余地はなく、
三世思想は現代において笑いものであり、新進教家のように愛欲についての罪悪を力説すれば却って人倫の侮辱と世間に指弾される。罪悪感という思い手荷物をもてあまして現代の機嫌を取り損ねた浄土教徒は、汽車に乗り損ねた人間である───残る煙を無念そうに眺めて、その行方を空しく思いやる。

2・論より証拠
 浄土教が現代に於いて行き詰まったのは、往生思想に囚われたからである。往生思想そのものは、宗教思想ではない。その理由は、次のようなものである。浄土教も原始仏教も禅宗も純真な宗教であるが、原始仏教・禅宗には往生思想が無い。つまり、往生思想の有無は宗教の本質には全く関係ない偶然の事柄であるとしてみれば、元来宗教とは関係ない別個の思想であるとことが知られる。

3・論もまた甚だ分明
 往生とはこの土に死して彼土に生まれることである。これは、霊魂の不滅と死後の生活を想像させる。しかし、このような想像は却って宗教そのものにとって甚だ危険な解釈である。

4・蒼然たる古色
 インドにおいては、三世思想は依然として社会組織が必要としている。一面においては、社会を支え、また一面においては宗教をかたるという二重の役目を果たす。三世思想が仏教の本色であるかのように混同されても、インドでは諦めの仕様がある。
 その一方、日本では法然・親鸞の時代、そしてわずか五十年前に至るまで、未だ古色蒼然であった。

5・和装せる印度人
 しかし、この三世思想が過去のものとなった今、人生の貴重な現実を生前の成り行き死後の方便として解釈し人間を骨抜きにする印度思想は、個人にあっては生存の影を薄くし、国家にあっては元気を阻喪せしめる。
 三世思想の否定は印度の社会組織のにとって危険性を持つものであることは、それは日本において万世一系や忠孝一致の否定が国家にとって危険性があることに相当する。しかし、印度人でない我らにとって、三世思想を遠慮すべきである。国民教育の大勢に逆行し、人の境遇を弄んで頭脳を印度人にしようとする固陋頑冥の和装した印度人は亡国の幽霊であり、日本を議すべき発言権を持っていない。

6・關又關
 往生思想は三世思想に躓かざるを得ず、然るに三世思想をカンヴァスとしてその上に幾多の模様を描き出さなければならない。試みれば、西方願生の往生思想については、現実の此土に対して理想の彼土を描きこれを安楽浄土と呼び、その安楽浄土の主人公を阿弥陀仏と釈し、その次第を願行具足あるいは成等正覚と名付けなければならない。一大神話の建立である。ここでは特に阿弥陀如来について語る。
 阿弥陀仏は歴史的人格ではなく、印度神話の大立物である。神の客観的実在は、キリスト教でもその証明が試みられたが、結局断念された一方、阿弥陀如来の客観的存在の証明はキリスト教ほど発達していない。しかし、一面より見れば報身阿弥陀如来の存在を問う仏身論は対外的に有効である限り阿弥陀如来の存在は無難である。ところが、浄土教の学者はややもすれば宇宙の原理たる真如理体の顕現であって、キリスト教のような単なる神話的伝説の主人公でないことを誇るのだが、このような門外不通の証明は全く何の利目もない。
 且つ浄土教の学者は、平生聖道諸師を遠ざけ、方便としながらもその一方で阿弥陀如来の存在を支えることに応援せしめ、阿弥陀如来が独立した存在であることを却って奪い去っている。

7・月中の兎
 信仰がもしも阿弥陀如来の存在を認めなければ確立しないものならば、ヒューマニズムに目覚めた現代ではもはや不可能である。
 そもそも真宗は自分の信心を以て阿弥陀如来の他力廻向であると主張する。はたして、この廻向の信心の中には、阿弥陀如来の存在・極楽世界の存在・霊魂の不滅・霊魂の罪悪深重なること・三世因果・六道輪廻を認めることが含まれているのだろうか?。これらの一々を拒んでも如来の救済に差し支えないと言うならば、問うべき子細はない。しかし、一々を認めなければならないとすれば難行難修の無理法門である。「手を延べて青天の月を捉えよ、然からば月中の兎は絶対的無条件を以てこれを汝に与えん」と。

8・求道者の悲哀
 浄土教の諸聖は、どのように往生思想を懐抱しつつその客観的価値を認め来たのであ
ろうか。善導大師は、厭世的願生者であって、その罪悪意識は深刻であり、西向合掌しつつ身投げして絶命したことからも伺える。法然上人は善導の十徳を挙げて、第七徳に遺身入滅徳を挙げて善導を賛美しており、病み患っても往生に近づく程の法悦も述べていることから善導の捨身と対比して紙一重である。親鸞は自ら急いで極楽に参りたいとは言わないが、煩悩の熾盛につけて却って往生の疑うべからざることを喜べと言う。
 以上、三種三様の差別はあるが当来を期する態度には何ら変わりはない。ここに現代の思想を解する浄土教の求道者にとって遂に成せざる所以があって、ここからまず論究しなければならないという現代の悲哀がある。  

9・立教開宗の古に復れ
 今や全く見失われてしまった始祖の精神を古のままに見届けることが重要である。始祖は、神話的往生思想を言葉として遺憾なくその宗旨を語った。浄土教の一切の神話及びその背景となる思想は浄土教の宗旨を発揮せんがための方便として使用された言葉なのである。我々は、ここで何事が語られているのかを聴取し体験しなければならない。そこに宗教的要求は良く満足することを得るのである。
 しかし、始祖はその時代の産児であることを免れることは出来ず、時代の許すがままに神話的往生思想を事実の沙汰であるかのように扱うことが可能であったのに関わらず、それを浄土教の本質に属するかのように誤解して如何なる時代にも強要しようとすることは浄土教そのものにとって危険である。もしそうならば、浄土教徒は善導や法然の如くしなければならなくなる。
 否。現代では往生思想をただ言葉として傾聴し、かつ何事が語られているかを会得して体験すればよいのである。

☆第四章 浄土教は何故に宗教なるか(上)
1・先づ宗教とは何ぞや
 宗教の通俗的意義とは、人間をしてその計らいに囚われたる生活より脱出せしむる教法である。阿弥陀如来を信じて自分の計らいに囚われた生活を改造することによって分別苦及び取捨苦を免れんとするもの、これが浄土教の精神または目的とするものである。

2・計らひの生活
 人生の危険は、計らいについて全く無反省であるであることにある。平生無事の生活には気付かないものであるが、有事の難局にはこの囚われに目覚める機会が与えられる。

3・人生の大破綻
 習慣の牽引するままに計らいの行き詰まりを以て直ちに人生の行き詰まりと成らざるを得ないという潜在的危険は、重大なる人生問題に刺激されて爆発を見る。そのような現状の不安の脱却が宗教的要求と呼ばれるべき正体である。そして、不安を脱却した状態が悟り、安心、信心、信仰などと称せられる宗教的理想の境地である。

4・舊統一の原理と新統一の原理
 計らわないで済むべき人生ではないが、計らいを以て人生の統一原理たらしめざることは、計らいのあらゆる場合を一貫して支配することとなり、この故に人生の新統一原理と呼ぶことが出来る。

5・舊統一の形式と新統一の形式
 分別取捨の形式が計らいの形式であり、この舊統一の破壊に新統一の形式がある。差別ならば平等に非ず平等ならば差別には非ずという形式を破壊して、平等即ち平等、平等即ち差別を語って宗教に独特の反論理的形式を取るのである。

6・恩が却て仇となる
 仏教においては古来荘厳なる法門の施設として鮮明なる三大着色が発達している。一つには、哲学的着色である。そもそも哲学者の用語は宗教とは全く関係のあるものではなく、用語を借りて形式を看取して容易に語らしめるためにある。二には、文芸的着色である。これも同様に、俗語に託して形式を看取し、容易に語らしめるためにある。いずれも、宗教的理想に対しての方便である。 これに加えて、浄土教の神話的着色がある。

☆第五章 浄土教は何故に宗教なるか(下)
1・浄土教の生命は深心にあり
 神話的往生思想が結局如何なることを我々に教えようとしているかについて吟味しなければならない。善導はこれについて、深心を発起せよと教えていると示した。人生の現実において深心の発起は、不動の決心であると共に浄土教の使命でありその全てである。この決心に、二様ある。機の深心、法の深心である。

2・深心の奇怪なる形式
 浮かばれないものが浮かばれる故に不思議であり、決して合理的分別の型に収めてみるべきものではない。

3・形式の指すところ果して何事ぞ 
 浄土教の求道者は、決して自己が罪悪深重にして浮かび出る期有りや否やに目を付けるのではなく、また自己が阿弥陀如来に救われて必ず浮かびうるや否やに目を付けるものでもない。無用の葛藤である。むしろ、浮かぶべからざる身が、同時に浮かぶべき身であり得ることの不審に気づくことが至要である。切言すれば、計らいによって統一された人生の現状を、如来の本願力を縁として破壊し去ることに他ならない。

4・更に看ずや、実践法は何事をか語れる
 実践法は、善導が十念釈義において名号を信ずることと、称えることに往生があると捉えたように、両重の意味を具有した阿弥陀如来の本願を縁とする一点にある。この実践法は、主信派と主行派に分化することとなる。

5・真宗一流の実践法
 主信派の「信ずる」とは、名号を聞いてその謂われを疑わざることである。「疑わず」とは如何なる意味を指すのか?。それは三世有り・過去以来の罪人なり・未来も到底浮かぶべからず・阿弥陀如来有り・如来が大願を発し大行を修したり・極楽世界を建立した・必ずそこに往生すると聞いて然るかと承認することではない。「然り」「然らず」とは、計らいである。分別至上主義に固執した自分が、本願名号の不思議に当面すればするほど打ち破られていく外に別の子細はない。この新統一の形式が、神話的着色された二種深信にあるのだ。

6・鎮西一流の実践法
 主行派は、名号を口称するべきだと主張する。口称するとは、声について計らいにつかない、ということである。その統一の形式も主信派と符合する。

7・本末の関係いよいよ炳焉
 主行派と主信派のいづれも計らいを離れるのが目的であって、手段の違いにすぎない。よって、他の思想が不可されるべき宗教的必要はない。

8・本願は唯物論者を漏らさず
 唯物論は、神の存在・霊魂の不滅を始め全ての信仰の客観的根拠が否定される故に、基督教の宿敵である。一方、阿弥陀仏の本願は唯物論者を含めて万機を嫌忌せずそのままに摂する。これを神話によって束縛することは、三国列組の精神と相離れる。

9・浄土教は是の如くにして復古せり
 以上において、厳正に本末を批判した。神話によって語られる信仰は本であり、信仰を語る神話は末である。しかるに、三世・六道・地獄・往生なども可である。よって、自分は最早遠慮や気兼ねもいらない天下晴れての極重悪人であると同時に、卑下も謙遜もいらない大往生人である。つまるところ、本論の主旨は本願の解放・浄土教の復古である。

☆第六章 過去の宗学と将来の宗学
1・独立の念仏、白木の念仏、無義の念仏
 宗教は学問ではない。また、浄土教の求道の要件として学問を認める必然性もない。
浄土教各派の始祖についてみても、この旨が標榜されている。独立の念仏は、念仏は学問を必要しないということであり、白木の念仏は、念仏は学問などによって彩るべきではないということであり、無義の念仏とは、学問分別などの沙汰ではないということである。

2・宗学の必要
 それでは、何故列組や宗学において理論的にその宗旨を扱ったのだろうか。その理由として、二つの事情がある。一つは内面的整理の必要である。それは、経論釈の思想について種々の問題が発生した際に矛盾しないように統一する必要があったのである。
二には、対外的整理の必要である。内面の問題だけではなく、外部の思想との関係と信仰の面目を発揮する必要があったのである。
 宗学の主要問題について、三種ある。一に聖浄論、二に真仮論、三に行信論である。聖浄論とは、浄土教が浄土教以外の仏教に対する関係の決定であり、真仮論とは、浄土教の中の方便と真実の二教について、後者の前者に対して有すべき関係の決定であり、行信論とは、阿弥陀如来の本願の名号と信じ称えることとの関係の決定である。

3・宗学を必要とする二種の動機
 宗学について批判して今後の方針を論結するに臨んで、予めその根拠と論断の基礎を示す。
 浄土教が整理を試みる所以の動機は何処に存在するのであろうか。これに二つの動機があって、一つは宗教的動機、二には非宗教的動機である。前者は、経論釈の思想を整理することによって、自ら味わい人にも味はしめる最も会心とすべき法楽の模様を立案しようとするものであり、信仰を本として神話を末とするものである。後者は、経論釈の思想について客観的価値を認め、整理することによって客観的真理たらしめんとするものであり、神話を主として信仰を従とするものである。
 しかし、時代の思想一新によって神話の客観的権威は肯定されず、非宗教的動機の行き詰まりと共に、宗教的動機も巻き添えをくってしまった。宗学の動機を至純にすることが重要である。


4・基督教に見よ。先づその学林哲学以前は如何
 基督教はそもそもその本質において学問と関係を持っていなかった。宗学に相当する必要は後に発生する。聖浄論に該当するのは希臘哲学であり、真仮論に相応するのはパウロの律法論であり、行信論に配当するべきはヤコブとパウロとの対象である。

5・学林哲学とその瓦壊の次第
 基督教はその基礎的な完成を告げ、是より以後はスコラ哲学(学林哲学)の宗学研究時代にはいる。これは真宗において、覚如・存覚・蓮如に相当する宗義確立の時代である。
 スコラ哲学に盛衰の次第がある。まず、第一にプラトーンのイデア論の哲学を採用したが、却って理想と現実の没交渉と、神と現実との関係を断絶する傾向を招く。この傾向は十二世紀に顕著となり、次にはアリストテレスを採用する。しかし、これも神の絶対的自由の面目を失わせるにいたってしまう。以後、トーマス、オッカムなどが出るが、いずれも神話的教義を客観的真理たらしめようとして失敗している。これは、信仰が神話的教義によって語られていくほどに、いつしか信仰至上主義と神話至上主義との両動機が対立して消長し、後者が遂に教義整理の宗学を支配するに至ったということが、宗学滅亡の致命傷である。

6・浄土教の宗学も学林哲学と全く同一本質のみ
 一見基督教の宗学と比較して、宗学の本質とは関係ない点での著しい相違(基督教の思想・概念)もあるが、宗学の本質においては何ら相違がない(宗学発達の動機)。
 基督教がその宗学を建設するに当たって希臘哲学を仰いだように、浄土教は宗学の理論的基礎付けを聖道門の教理にたづねた。ところが、もともと希臘哲学が基督教そのものと関係が無かったのに対して、浄土教は全く反対である。このことに相違点がある。
 この相違点に対して一致点は如何なるものであろうか。それは先に挙げた、宗教的動機と非宗教的動機の二つの動機によって、宗学が発達したということである。また、これらの宗学が不純になる理由は、その時代が宗教本来の面目である信仰の傍らに神話の客観的真理を許し得たことに起因する。

7・宗教的立案は氷上燃火
 信仰の上に立案された宗学の全体は縦横無尽の計らいであって、氷上燃火の如くヒューマニズムに類燒される危険がない。文盲の一信徒が、本願廻向を本願猫と思いこみ煩悩の鼠を退治すると喜んだという純真な野人の宗学は、空華や石泉と比べて何の遜色が在ろうか。如何に煩瑣な宗教的動機に基づく宗学も、宗教の面目に系するものではない。

8・非宗教的施設は原上燃火
 中世もしくは封建の気分を回復することが出来ない限り、神話を権威づけるための非宗教的動機に基づく宗学との腐れ縁を保ち続けることは、浄土教の宗学の八方塞がりを打開できない。

9・過去の宗学に対する用意
 宗学の仕事は、過去の整理と将来の開拓とに分けられる。前者は、先哲の思想を吟味しその面目を発揮することにその目的がある。後者は、宗教界における一個の作家となることにその目的がある。いずれにしても今後の宗学の動機を警戒する必要があることに変わりはない。
 先哲の宗学はその動機について多く不純であった。宗教的動機と非宗教的動機を倶存せしめたのである。しかるに、今後の研究者はこれを翻然と放擲し、味道の形式は斉合であるか、内容は豊富であるか等を出来る限り吟味して客観的批評即ち内在的批評を肝要とすべきである。
先哲の面目をその宗教的動機において尋ねて、崇め、接し、親しむ以外にない。

10・将来の宗学に就いての用意
 将来の宗学は、客観的真理たるべく要求する非宗教的動機を加味しないことにある。しかるに、将来の宗学は宗教的動機の外に非宗教的動機を並立するような不純な学問ではなく、宗教的動機に立ち返った味道である。これが宗学の体である。そして、宗学の用とは、その存在意義即ち所詮をさす。つまり、宗祖のように人をして味道せしむることである。
 親鸞の教義は、その計らいなき安心を親鸞独特の計らい模様に訴えて味わった真宗模様であって、その無様の安心に住しているが、決してその模様に住してはいない。住するところに一致して住していないところに、正邪を以て自他を分ける必要はない。新宗学を立てることによって各宗派相対峙することなく、相敬し相重んずることが出来るであろう。   


「近代真宗教学史の概観」  
 『近代真宗思想史研究』信楽峻麿氏編より
 著者 :毛利 悠氏
 出版社:法蔵館
 初版 :1988年(現1988年版)
                    
【各章の概略】 
☆はじめに
 近代の真宗教学の背景となるものの内容を分析すると、三つの内容がある。その第一は、江戸時代からの伝統的影響であり、第二は新しく移入された制度思想であり、第三は天皇絶対主義体制の中で生まれた情況である。
 第一の江戸時代からの伝統的影響とは、真宗が江戸時代の封建倫理の代弁者であった”御恩”から如何にして近代に脱皮行ったかということである。もとより”恩”の思想は、親鸞の如来一仏に対して帰依するという「主体的行為」であったが、中世末の教団支配が強化されていく中で、その権力組織への忠誠を尽くす論理となった。そして江戸幕藩体制の中では、儒者の真宗遊民論に対抗する真宗有益論の主要な論拠となった。出世間の思想が、世俗を賛美する思想になってしまったのである。このような封建思想(報恩念仏)から近代に向けて如何に脱皮し、近代の真宗の学問(教学)、教育(布教、伝道)の最大の課題であった。
 第二は、近代の代名詞でもあるヨーロッパ思想との対決である。身分制や権威主義的組織を持った真宗と西欧の自由や平等との対峙であり、また近代的自我に如何に教えを説き、悩みを解決したかの観点である。
 第三に於いては、大日本国憲法発布に伴う近代民主主義と自由思想、特に学校教育の中で政治参加を制度的に獲得した主体が、政治社会、全体社会の中でどう”個”を確立するかという課題である。

☆・一近代教学の成立の要件
 第一の内容は、経世的又は体制論理を説く儒教国学等の側からの仏教無用論に如何に対応するかという問題である。時の教学者は、多数の護法書を著した。これらは、直接反駁したもの、念仏者として自省を訴えるもの、三教鼎立を述べて儒教や神道との融合を説くものなどが見受けられる。しかし、結論的には真宗教学が「善良なる臣民」教育に役立つ、という形で排仏運動をかわしている。

【当時の護法書】
南渓 『角毛偶語』   (1845年)
潮音 『掴裂邪綱編』  (1846年)
曇龍 『垂釣卵』    (1840年)
龍温 『禦謗慨譚』   (1863年)
  『総斥排仏弁』 (1865年)
義導 『利剣護国編』  (1863年)
   『護法建策』   (1868年)
宗興 『無何里問対』  (1867年)
   『大蔵輔国集』  (1869年)
 
 第一の内容のもう一つの要素は、本願寺派教団の「三業惑乱」以来の教学の硬直化である。この時、教学責任者(能化)が破れて、西本願寺が閉門の処分を受けたことに対して、教団は教学の責任の分散化、教学の細分化、門主の信心裁断権の再確認と共にその権力の強化が行われて、教学の質的硬直化を招いた。

(門主権限強化の次第)
 幕末〜明治初期の長州僧侶による教団改革で真宗四派(西・東・高・木)合同の『宗規綱領』の法主権は、得度の師が本山法主一人に限られることと、本尊・祖像・影像・仏号の付与権が本山法主特権であること、の二つのみである。寺号の付与権、信心裁断権、行政一般の権限は本山であった。しかし、明如法主のグループが岩倉具視等と談合し、法主権限の強化された『寺法草案』を、長州僧侶の排除のもと成立させるに至って、法令の裁許・公布権・集会の招集解散権・執行の任免権など教団運営の根幹全て並びに信心裁断権を門主権限とした。このような限定から、自由な論争の規制や学者の自己規制を生じ、信心(教学)の独自性、優位性に比して教団の政治政策が優先されるようになった。規制は具体的に僧籍剥奪などの教団権力の弾圧として現れ、近代を一貫して今日もなお深い影を落としている。

【規制の具体例】
島地黙雷   称名正因説  明治初期
前田慧雲   大乗非仏説  明治中期
野々村直太郎 浄土教批判  大正期
金子大栄   浄土の観念  昭和期
曽我量深   法蔵菩薩論  昭和期

 第二としては、キリスト教と、近代ヨーロッパの自由平等、国民主権、法治主義、進化論、地動説などの自然科学の新しく移入した制度思想に対する教学の護教的排外的態度である。また、護教的であるが故に無批判な即応的態度も見られた。一八六六年の本願寺派では百叡の『口上書』の提出を始め、一八六八年学林改革における破邪学科創設がなされて、キリスト教攻撃の僧侶養成がなされた。大谷派でも、同様に護法場が設けられている。キリスト教研究書が多く記され、その基本の主張は、キリスト教を邪教視して、その破斥は国家擁護を根拠とした。

【キリスト教の研究書】
南渓   『杞憂小言』     (1868年)
超然   『寒更霰語』     (1868年)
細川千厳 『破斥釈教正謬前編』 (1869年)
佐田介石 『仏教創世記』    (1869年)
島地黙雷 『復活新論』     (1870年)
石川舜台 『耶蘇教秘密論』   (1975年) 

 しかし、このキリスト教研究が、新しい学問勃興の基礎ともなった。学林の、一八六八年に『学林改革の八箇条』は、宗派内の限定された教学に、新しい思想としての教学を発揮する機会となった「普通学」導入の先駆ともなる方針にもなり、一八九〇年代の教育学問の制度の発達の気運に乗って、自由な近代科学を吸収した学問へと教学が脱皮することになる。
 西欧思想へのもう一つの対応は、自然科学的分野との対決である。西方浄土の教説については須弥山説擁護論が展開され、佐田介石においては地球儀に対抗して視実等象儀を作成して実証的にこの論を主張した。また、介石は国粋主義に立って欧化思想に抵抗し、ランプ亡国論や鉄道亡国論を主張したが、後に瓦解する。一方、一八七二年には、島地黙雷や石川舜台などが欧州諸国の文明視察にも出ている。

☆・2天皇絶対主義教学
 幕末の尊王攘夷運動に対して、本願寺教団は防長出身僧侶を中心として尊皇攘夷路線を進める一方、大谷教団は江戸初期の幕府への恩義から新政府への対応が遅れたが、北海道開拓に参加するなどしていずれも新体制に積極的に順応した。明治新政府が、一八七二年に教部省設置に伴い、敬神愛国や天皇の遵守などを条件とした神官及び僧侶を教導職に任命については、無条件にこれを受容している。宗学者・教学いずれも新体制に即応しており、宗学者の代表としての一人に瑕丘宗興がある。瑕丘宗興は、『山房夜話』で、皇統に対する絶対的信服と勤皇報国思想を一貫して述べている。
 一八七三年には、教導職養成の大教院が設置され、神道優先による国家権力の仏教支配が
はかられている。これに対しては、島地黙雷を中心とする大教院分離運動が起こり、政教分離の原則にたった信教の自由権が主張されており、長州出身僧侶の努力もあって成功を収めている。しかし、天皇絶対主義や神道無宗教論による弾圧の歴史が続くことになる。一八七五年に、大教院は解散し、後に教部省と教導職も廃止されている。
 しかし、真宗教団としての路線は、国家体制に追従するものであった。真俗二諦の教義を構築して、真宗信心の本義としたのである。これに伴って、親鸞の原意趣との齟齬が問題となり、大谷派では『御伝鈔』で、天皇権威と神道の忌諱に触れる文を読み替え、または、省略がなされた。同様に、本願寺派でも、化巻の「主上臣下」の文などの伏せ字が決定された。結局、これらの教学的対応は近代的教団を成立させる方向に向かわしめることが出来なかったのである。
 天皇絶対主義は、思想的には、「神代神話に観念上の根拠に置く天皇の神聖な権威」を「儒教等の伝統的東洋倫理」で擁護する教育勅語体制であり、『帝国憲法』と『教育勅語』で具体的な政策とした。この政策の基本思想は、神道国教化であり、その内容は徹底強化される。一八七〇年の「敬信愛国・天理人道・皇上奉戴・朝旨遵守」の『三条教則』という支配イデオロギーは、一八八一年の『改正教育令』の「もっぱら尊皇愛国の志気をふるいおこさせる」という目的に継承され、一八八九年の帝国憲法で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」として確定する。これを『教育勅語』で一般国民に徹底して、封建道徳と国家主義へと強制する。
 このような経過の中で、仏教界には仏教国益論に基づく体制権力参加と革新主義に基づく新仏教確立の二つの動きが見られる。

☆・3真宗教団の『教育勅語』宣伝
 幕藩体制かで確立した、本山→末寺→檀家という教団の教化機構は上意下達体制として踏襲された。これを更に強化したのが巡教師機構である。外教=キリスト教、普通の学識=科学への対応攻撃を中心とした教化活動を主眼としたのが巡教師である。
 井上哲次郎の『教育と宗教の衝突』が刊行されると、国家と宗教の問題は論壇の中心的話題となり、キリスト教と『教育勅語』の相違点は「国家主義と非国家主義、忠孝道徳の軽重、現世観と来世観の軽重」にあると批判した。この主張に、前田慧雲や古川勇等を除き、真宗を含む仏教界は迎合してキリスト教非難に終始する。
 一八九一年に、本願寺教団は『教育勅語』の宣伝を方針とし、東陽円月(『勅語奉躰記』)、赤松連城(『勅語衍義』)、藤島了穏、大谷派では南条文雄、村上専精、井上円了等がその任に当たる。それらは、国家主義教学の主張であり、勧善懲悪による仏教国益の主張であった。天皇制国家権力の一部として、法主絶対の中央集権な教団教学を形成していったのである。
 このころ、親鸞には「見真」、蓮如には「慧燈」という大師号が宣下されている。

☆・4近代教学の成立
 明治中期になると、ヨーロッパの哲学に学び新しい真宗教学を創造するものが登場する。井上円了は、一八八七年に『仏教活論序論』『真理金針』をしるし、旧態依然とした状況を批判し、キリスト教の滅亡を願いながら、逆にキリスト教との格差を露呈していることを指摘した。これに刺激を受け、一八八七年に普通教校学生が、前年の禁酒運動を母体として、新しい真宗と仏教界の言論の伸張を期して『反省会雑誌』を刊行する。
高楠順次郎、古川勇、杉村広太郎等が集まり、プロテスタントの提唱を受け止めて新しい仏教宣伝活動をしようとしたものである。その後発展して、一八九九年には、『中央公論』として総合雑誌になる。
 この時代は、歴史学を中心とする科学的研究が進められた結果、近代的仏教解釈が志向され、一九〇一年には、大谷派の村上専精が『仏教統一論』をしるし、大乗非仏説を主張した。本願寺派の前田慧運は、一九〇〇年に、『仏教古今変一班』をしるし、仏教の歴史に伴う変化と、七祖の思想的な変遷を述べ、覚如・存覚・蓮如の真宗理解に曲折があることを指摘した。また、『大乗仏教史論』で大乗非仏説を主張して、多くの批判を受けている。
 このような時流の中にあって、称名正因の異安心を疑義されながらも七里恒順・村田静照は、地道な念仏者を育てる活動を続けていた。教団が体制迎合している一方、儒教の五倫が念仏の上で根拠にならないことや、明確な世俗の否定を述べている。
 一九二三年には、七里に育てられた野々村直太郎が『浄土教批判』を刊行して、実存的な真宗理解をした。その内容は、浄土教での三世因果・浄土往生等の神話表現が過去の遺物であり、特に往生思想は、浄土教の本質でないことを主張しており、古い自分を破壊し新しい人生の原理に生きることが二種深信である、というものであった。 
 これに対して、本願寺派は信心裁断権によって異端とし、僧籍剥奪と龍谷大学からの追放を決めた。また、勧学寮を設置して教権体制を固め、真宗学研究機関として宗学院を設置し、百論題を制定した。
 大谷派では、一八九六年に清沢満之を中心とした「内在的超越の論理」の教学がおこる。真宗の近代的教学は、この教学を起点としている、と言っても過言ではない。『教界時言』を発行して有志に呼びかけ教団を批判したが、教団執行部は首唱の六人の僧籍を剥奪するに至る。この後、石川舜台が改革運動に対応したが挫折してしまう。しかし、
やがて展開していった精神主義運動を通して、新しい真宗近代化の潮流を創出し、後世に偉大な影響を残していった。後の西田幾多郎も、この清沢満之の影響を強く受けている。
 この流れの中で金子大栄や曽我量深等の大正自由教学が生まれる。金子大栄は、一九二五年に、『浄土の観念』『彼岸の世界』、一九二六年に『如来及浄土の観念』を刊行した。それは、新カント主義の影響を受け、実在的に語られてきた浄土について、神話的な表現を廃し、近代理性に基づいて新しい解釈を試みたものである。そこでは、浄土とは彼岸の世界であるとし、それは我々の徹底した自己内観において感知されるものである、とされた。真実の批判が自己において成立するとき、それに即して実現自証されるのであり、彼岸の世界は念仏のところに現れる、というのである。自己内観の極限において、その極限自我として、全く我ならぬものとして如来が現前するとき、その如来の世界として認知されるものが浄土であり、それは純粋客観にして又同時に根本的主観として観念せしめられる世界である、と主張したのである。しかし、一九二八年に宗義違背とされて、金子大栄は大谷大学から追放され、僧籍を剥奪される。この追放事件には、
大谷大学の学長等が抗議して連帯辞職している。次いで、一九三〇年には、曽我量深が法蔵菩薩が阿頼耶識であると主張したが、教団当局から攻撃され大学を辞している。
 以上のように、新しい教学は古い権力との闘争の中に生まれた。しかし、後述のように、これらの教学が戦争という政治的場面では、必ずしも有効ではなかった。
 大正期の教学でいま一つ重要な教学は、西光万吉を主要とする部落解放運動から生まれた教学である。被差別の現場からの理解は、権力の側からの親鸞理解を突き破り、創唱宗教本来の人格の問題、人間社会の相対化を含む、本質的教学理解が促された。また、同朋主義が単純な法悦生活という心情の世界に限定されていることを批判して、人類普遍の教学へと昇華した。
 また、本派の出身で社会主義者として受難の道を歩んだ高津正道のような人物もいる。ヒューマニズムに立って、社会主義と宗教を止揚することを念願したが、検挙されるに至って僧籍を剥奪している。
 新しい親鸞像を一般化した木下尚江や倉田百三もこの時期の人である。木下は、宗教改革者あるいは民衆的宗教者として親鸞像を強調し、真宗を平民宗教として定着せしめた。倉田は、『出家とその弟子』で人間的親鸞像を強調した。彼らは、教団の内外に大きな影響を与えたのである。

☆・4戦時教学への転落
 大正自由教学は、人間的内面的立場としては成熟し完成したが、西光万吉のような社会的な方向への展開には必ずしも成熟完成しなかった。時、戦争にあっては尚のことであった。この急激な体制の中で、教学的には二つの流れがあった。一つは、権力体制に迎合した教団中央の為政者と宗学者、もう一つは、親鸞思想の根幹だけは守ろうとした門信徒と僧侶である。
 前者に当たる大谷光瑞は一九三一年の満州侵略を唱讃し、仏教徒が正義のために戦争することを肯定した。また、一九三八年の国家総動員法が公布されるに当たって、宗教報国運動を展開した。本願寺派の梅原真隆は『興亜精神と仏教』を刊行し、聖戦論を主張した。また、一九四二年には金子大栄が『正法の顕現』を著して、誓願に基づく聖戦であることと、仏法が神道の一部であることを主張した。同様に、清沢満之門下の暁烏敏も『臣民道を行く』で、戦争を擁護している。一九四三年には、龍谷大学興亜科の普賢大円が、『真宗の護国性』を刊行して、天皇絶対主義の思想をそのまま真宗教学として位置づけ、神道と仏教の相互補完を説いた。この傾向は、一九四五年の大谷光照法主の『皇国護持の消息』、本派の『宗門決戦綱領』、大派の大谷光暢法主の『殉国必勝の教書』でその極に達する。
 しかし、このような中央の動きに対して、島根県門徒が神棚設置に抵抗して県当局と論争し、「各自随意」を認めさせ、香川県・滋賀県・広島県・山形県でも同様の抵抗がなされた。一九四〇年には、教団中央が親鸞引用の『菩薩戒経』お削除したのに対して、行信教校校長は、批判して撤回を要求している。

☆・5まとめ
 近代真宗教学史において新しい教学は、教団との対決の中で生まれ、潮流となった。それは次世代にも受け継がれ、今日においても教団改革の動きとして結実しつつある。
 しかし、個(個人の自由・信教の自由)の方向で展開された大正自由教学が、全体の構造に転落したときに、戦時教学に堕落したことを忘れてはならない。「内面的超越」は個の内なる方向に向かうことによって全体を超えたが、同時に全体に対峙する内なる方向を論理化することは出来なかった。信教の自由の方向と内面的超越とが同時に体験されるところにこそ親鸞の信の世界がある。
 今、経済を中心とする世界の流れの中で、いかに人間を中心とする教学が自己の立場を主張できるかが最大の問題である。とくに、国家の存亡が我々自身の豊かさの存亡とと重なるとき、真俗二諦の精神構造が全体の思想統制の構造に積極的役割を果たすことをすでに歴史が教えてくれた。自己の内面への厳しさが、同時に全体構造への堕落にいかに厳しく向けられるかを基礎づけることに今後の教学樹立への最大の課題がある。それは、真俗の緊張、すなわち世俗の中に真を貫くとき、初めて成立する世界であるといえる。